「陶器山七不思議」は泉北・狭山ニュータウン境界の陶器山近辺に残る、弘法大師空海にまつわる伝説。毎度同じことを書いて申し訳ないが、名称と伝説の内容は残るものの、今では正確な場所が分からなくなっている。しかし、今回の「猫坂」は今も地元でそう呼ばれている場所がある。猫坂の伝説は、飢饉で捨てられて餓死した飼い猫達の霊が坂に集まり鳴くのを不憫に思い、弘法大師が御回向をしたところ鳴き声が止んだというもの。猫坂(中区陶器北)は陶荒田神社から東陶器幼稚園の前を通って東陶器公園に向かう道の途中。陶器川両岸の急な坂で、もの凄いV字の地形だ。 
 実はこの地形こそ、ここが「陶器」となったゆえん。そもそも須恵器が泉北一帯で作られたのは①須恵器に適した土、②燃料の赤松、③登り窯向きの地形がそろっていたから。しかも、ここなら出来上がった須恵器を陶器川で運搬可能。かくして、須恵器作りの中心地「陶器」になったというわけだ。
 東陶器公園は鎌倉時代、北条氏の家臣・陶器左衛門尉の居城だった陶器城跡で、フェンス内に盛り上がった本丸跡が残っている。猫坂のV字地形と高低差があって視界が良い上、川と両岸の坂で攻めにくいため、ここに築かれたようだ。しかし、公園内の看板によると、楠木正成一族に攻められ陶器氏は滅亡。その後北朝方の拠点だったが、南朝方の和田助氏・助重に攻め込まれたとある。和田氏は楠木正成の一族で、正成以外の兄弟は和田姓。正成の兄の子・高家は岸和田古城を築いたが、岸の和田氏で岸和田となった。美木多の地名も和田の読みが変化したものだ。この辺りでの和田氏の力が伺える。陶器城が和田氏に攻められた歴史を考えると、猫より死んだ武士の方が数も恨みも大きい気がするが、武士の霊の話は無い。武士としての理に死して悔い無しということか。片や、ペット達はなぜ棄てられたか理解できない。無心に飼い主を慕って鳴く哀れさを思うと、弘法大師の御回向がしみじみありがたい。

写真:今でも地元では猫坂と呼ばれている

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