今回から「陶器山七不思議」を取り上げる。粘土質の丘陵地帯で木材が豊富な泉北では、5世紀から12世紀まで須恵器が生産されていた。須恵器の生産が終わった後、陶器山の尾根は天野山金剛寺への参詣道になった。天野山金剛寺は真言宗御室派の大本山。行基が開き、弘法大師が修行した聖地。弘法大師は今回取り上げる槇塚にも深く関わっている。

 槇塚台の街開きは昭和47年4月。「まきづか」は地区内にもともとあった通称で、開発されるまで槇の木が多かったことと、東側に沿う陶器山の言い伝え・陶器山(とうきやま)七不思議の一つ「黄金塚(こがねづか)」にちなんで名付けられたという。槇塚台小学校のホームページの「校章のいわれ」では『槇塚(1丁10番)は、その昔小高い丘の上に黄金がうずめられており、夜になると光を放って、浜寺・石津の沖ゆく船の道しるべとなり黄金塚と言い伝えられました。のちに、この地に宝きょう印塔という塔が建てられ、経巻とも呼ばれるようになりました』と紹介されている。この経巻を埋めたのが弘法大師で、お経の巻物から「巻(まき)塚」となったという。お経が黄金のようにありがたいということだろうか。

 泉北は丘陵地で、例えば竹城台にある小谷城は千早城の南朝方から浜の寺(浜寺、高石にあった浄土宗大雄寺)に通信を送る「狼煙火」の中継所として重要な役割を果たしていた。照明も通信手段も無い時代、見渡す限りの暗闇の中、丘の上で光る明かりはどれ程心強かったか。槇塚の光はまさに黄金の如きありがたさだっただろう。

 槇塚は見晴らしがいい丘の上にあった。ぱっと見は単なる木の茂みで、看板も何もない。通りがかりの上品な女性が「このあたりに40年住んでいる者ですが、私もここが遺跡か何かだと聞きましたよ」と教えて下さった。

 実は七不思議の場所はどれもはっきりとはわからなくなっていて、槇塚も別の場所という説がある。テクノロジーが発達した現代にあって情報が消えていくのは、人々の心から伝承が失われつつある証だろう。

(写真は黄金塚があったとされる場所)

(2018<平成30>年11月22日号の記事を再掲載しました。)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です